「あすか、て」
武道場を併設した屋内体育館から寮へと戻る道すがら、
隣を歩く興さんに突然そう声を掛けられて、一瞬きょとんとする。
―――が、すぐにその言葉の意図に気付き、明日叶は思わず歩みを止めた。
……バレた?いや、そんなはずは。
「どうしたんですか、興さん」
同じく立ち止まり、じっとこちらを見つめる興さんに、
明日叶は曖昧な笑みを返した。 ―――背中と腋に、嫌な汗がにじむ。
けれど、色素の薄いその大きな瞳は思いがけず強い視線を保ったまま、揺らぐことはなく。
「あすか、て。みせて」
見え透いた誤魔化しなど通用しないと言わんばかりに、
興さんは辛抱強く、やや強めの声で繰り返した。
「ぅ……はい…」
明日叶は観念して、渋々左手を差し出した。
そうっと、まるで出来あがったばかりの折鶴を扱うように、
慎重な仕草で手首を持ち上げると、興さんは「うむ」と一つ頷く。
と、それまで触れるように手首を支えてくれていた手のひらが、きゅ、と一瞬だけ軽く握られた。
「……っ」
とことん加減されていたせいで、痛みというほどのものでもなかったが、
忘れかけていた微かな疼きがその部分に走り、明日叶は思わず眉を顰めた。
「あすか。かくしても、おれ、わかる」 いつもと同じ淡々とした喋り方。
しかし明日叶には、その中に確かに込められた非難の色を感じ取ることが出来た。
「すいません……」
隠していた後ろめたさと、バレてしまったバツの悪さから、思わず俯きがちになる。
「んん。あすか、そういうところ、だめだぞ?」
幾分か和らいだ声が、そっと明日叶を窘めた。掴んだ時と同じように、優しく腕を解放される。
触れられていたところが、ほんのりと熱を残して温かい。
「あすか、がまんづよい。それ、いいこと。つよくなれる。でも」
再び歩きだした興さんに、慌てて続く。
「おれのまえでは、だめ。いこう、あすか。ちゃんとしなきゃ、だめ」
穏やかだが、有無を言わせないその声に、明日叶は素直に従って後に続いた。
ばさばさとベッドの上に散乱する雑誌類を無造作に散らすと、
興さんは空いたスペースに靴を脱いで上がりこんだ。
「あすか。ここ」
片膝を立て、もう片方の足を投げ出すと、軽く開いた足の間をぽんぽんと叩いて示す。
「え…と、」
その意味が読めなくて躊躇していると、焦れた様子の興さんに腕を引かれる。 もちろん、痛めていない方の腕だ。
「…っ、ぅわ」
勢いで、ぽすん、とベッドに腰掛ける格好になった。
そのまま腰に回された腕の力に引き寄せられ、後ろから抱き締められる形で、
興さんの大柄な身体にすっぽりと収まってしまう。
「あの……は、興さん……!?」
いきなり上昇した密着度に焦る明日叶をよそに、回した腕はそのまま、
興さんは器用に上体を倒すと片手を伸ばし、ベッドの下から一抱えの箱を取り出して置いた。
蓋を開け中身を引っ掻き回す様子を見て、ようやく明日叶にも状況が飲み込める。
「おれ、じぶんのはできる。けど、ひとのはできない」
なるほど、だから同じ方向を向けということらしい。
もぞもぞと、興さんが両手を使いやすいように身体の位置をずらしてみる。
後ろで満足そうに微笑む気配がしたので、明日叶はひとまずほっと息を吐いた。
湿布を貼った手首に、くるくると手際良く包帯が巻かれていく。
手先が器用なことは勿論知っていたが、こういう作業も得意なんだな…と、
目の前で軽やかに動く指先に、うっかり見惚れてしまった。
はっと我に返り、そういえば、ずっと気になっていたことを訊ねてみる。
「あの、興さん」
「んー?」
黙々と作業に集中しながら、それでもちゃんと応えてくれる。
「あの……ですね、えっと……」
慎重に言葉を選ぶ。
「あの、どうして気付いたんですか?」
そう、自分が負った、この怪我のことだ。
今日の午後は、柔術の授業だった。
いかなる状況下でも無事にミッションから生還するため、
マニュスピカ候補生に課せられる必須科目の中には、武術の類も多種多様に含まれている。
その中でも柔術は、武器となるものを何も持たない最悪の状況下において、
己の身体一つで危機を乗り切るための知識を学ぶ、特に重要視されている授業だ。
一言で柔術と言っても、その流派や作法にはそれこそ星の数ほどの種類があるが、
今日の講義ではとりあえず、素手の状態で相手の攻撃を防いだり、
敵の拘束から逃れるための基本的な動きを教わった。
講師からの一通りの説明と実演が終わると、各自ペアを組んでの実践練習となる。
武術に関しては全くの素人である明日叶には、戦闘能力では群を抜く実力の慧がついてくれた。
十分な余裕がある分、慧は一つ一つの動作を丁寧に、あらゆるパターンの切り抜け方を教えてくれた。
危なっかしい明日叶の動きにも、的確に指導を入れてくれる。おかげで安心して、自分の動作に集中出来た。
―――はずなのだが。 ちら、と、また視線が揺らいでしまう。
一つの型を終えるたび。 意識して見ないようにしているのに、どうしても気になってしまうのだ。
密かに向けた視線の先には、すらりとした、マネキンのように均整の取れた長身のシルエット。
少し離れた場所にいるから声までは聞こえないが、明日叶の決して悪くない視力は、
時折真剣な眼差しで後輩に指導を入れる興さんの表情を、確かに捉えていた。
身体を動かす授業のほとんどを「面倒だから」と避けてしまいがちな興さんの珍しい姿に、
思わず意識が吸い寄せられてしまう。
「明日叶、一休みするか」
そんな様子に気付いたのか、慧が声を掛けてくれた。
拙い練習に付き合ってもらっている上、注意散漫な自分を気遣ってもらうなんて言語道断だ。
明日叶は強く首を振った。そのまま動きを再開する。
「いや、大丈夫だよ。ごめん、慧」
そう言いながら、受け身を取った。―――次の瞬間。
「………っつ……!」
「明日叶!」
くるりと腕を捻り腰を落としたところで、僅かに姿勢がぐらつき左腕に変な力が掛かってしまった。
手首に鋭い痛みが走る。
慧が慌てて、掴んでいた両腕を離してしゃがみ込んだ。
「大丈夫か、明日叶」
「う、ん。ごめん、平気だ。びっくりしただけ」
痛みも一瞬のことだったので、明日叶は何でもないと笑うと、
心配そうに眉をひそめる慧にひらひらと手を振ってみせた。
「明日叶、無理はするな。なんだったらもう…」
やや過保護気味も否めない幼馴染は、今にも強引に医務室へ引きずっていきかねない勢いだ。
「け、慧、本当に大丈夫だから!痛かったらちゃんと言うよ。だから」
もう一回練習したいと頼むと、疑わしげな表情は変えぬまま、それでも渋々引き下がってくれた。
幸い、周囲の誰も、この事態には気付いていないようだ。
(良かった……)
明日叶は内心、胸を撫でおろした。
こんな―――こんな情けない理由で負傷、だなんて。自分の未熟さにほとほと呆れ果てる。
………猛烈に恥ずかしい。 赤らむ顔を運動量のせいにして、練習を再開する。
さりげなく痛めた腕を使わないような動きを促してくれる慧に、
申し訳無さと感謝で恐縮しきりのまま、明日叶は残りの授業時間を過ごした。
「あの時、興さんはヒロと一緒にかなり遠い場所で練習してましたよね。
どうして……その、俺がケガしたのが分かったんですか?」
我ながら、改めて口にすると情けない。
原因が原因だけにどうにも恥ずかしいのだが、明日叶は好奇心に負けて聞いてみた。
と、ことん、と肩に顎を乗せられた。
「あすかは?」
「え?」
「あすかは、なんでしってる?おれが、はなれたところに、いたこと。
ヒロと、いっしょにれんしゅー、してたこと」
そう問われて、思わず首から上に熱が上がった。
「そっ……それは…」
かち、と最後に包帯を押さえるための小さな金具を留めると、興さんは静かにその左腕を離した。
空いた両手が、ぎゅ、と明日叶の身体を抱き締める。
「あすかが、おれをみてたのと、おなじ」
悪戯っぽい声が右耳をくすぐった。
「おれも、あすかのこと、いつも、みてる」
楽しそうな、心底幸せそうな声に、いよいよ気恥ずかしくて振り向けなくなる。
怪我をしたことだけでなく、その間抜けな原因まで見透かされていた、とは。
………ああ、もう、かっこ悪すぎる。
項垂れた明日叶の首筋に、背後からちゅ、とキスを落とされた。
弱い場所への突然の刺激に、思わず身体がぴくんと反応する。
「あすか、かわいい。おれのこと、ちゃんと、いつもみててくれる」
滑らかなテノールの声が、明日叶の鼓膜を甘く食む。
「………っ、は、興さん、もう……」
恥ずかしさのあまり思わず両手で顔を覆うと、明日叶はいやいやと首を振った。
「どうして、てれる?おれ、うれしい。あすかのめ、おれだけのもの」
不思議そうな声が聞こえたかと思うと、ぐい、と身体を反転させられ、大きな水晶のような瞳に射抜かれる。
人形のような、と形容されやすいその透明な瞳の奥底に、
明日叶には確かに、豊かな色が溢れるのが見えた。
気まずかったはずなのに、思わずその甘い視線に見惚れてしまう。
「でも」
ふいに生真面目な表情に戻った興さんが言った。
「ぶじゅつのれんしゅーのときは、あぶないから。集中、しなきゃだめ」
「………はい」
大人びた口調の興さんに窘められ、全くもっておっしゃる通りです、
と、明日叶は叱られた子供のように小さくなって頷いた。
くすくすと、堪え切れないといった笑い声が零れる。
―――なんだか、いつもとは立場が逆転しているような気がする。
今度は前から優しく抱き締めてくれる、その広い胸に、明日叶は少しくすぐったいような気分で頬を寄せた。
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フギャーーーーーーーー!!!!
毎度お世話になっている雪織様から、
とんでもないお宝を頂いてしまいました。
はじめちゃんです!雪織様のはじめちゃんですよ!!
肩にアゴ乗せとか…立場逆転とか…
ナチュラル相互ストーカー状態とか…
フギャーーーーーーーー!!!!(2回目)
なにこれたまらん。きゅんきゅんする。
むしろそれ通り越して胸が痛い。
(よくわかる経緯)
雪織様 「はじめちゃん書いてみるよ」
私 「(バッ…!!)是非!!」
雪織様 「リクエストあるかい?」
私 「そんな…、書いていただけるってだけで、天にも昇る気持ちですから…」
雪織様 「そう?じゃあ…」
私 「でも強いて言うなら、“強い視線”と、“体格差”は盛り込んでほしい!
あとね!あとね!(…以下略…)」
雪織様 「…( ゚Д゚)」
あまりにもテンションが上がっちゃったもんで、
勢いに任せて一枚書いちゃいましたよ、お目汚しごめんなさい。
あ〜〜〜彼女の作品のファンでよかった。
しつこくしつこくしつこ〜〜くはじめちゃんを推してよかった。
なにより彼女が寛容な人でよかった…。
無理難題ねじこんで本当にすんませんでした&ありがとうございました!!
そして、また是非是非よろしくお願いいたします!!
ちなみに、微エロなおまけまでいただいてまして…
微エロOKな方は
こちらからどうぞ